結局朝までまんじりともせず過ごし、夜明けと共に道場へ向かった。苛立ちや己の弱さを振り切りたくて、遮二無二素振りを繰り返す。
 昨夜、近藤は土方が部屋に引き上げて、すぐに屯所へ戻ってきた。
 局長室は、副長室の奥に位置している。廊下を進む足音は急いでいて、土方の様子を伺うでもなく通り過ぎて行った。
 もう、近藤は土方に関心もないのかもしれない。やるせない気持ちと行き場のないもやもやする感情が醜く渦巻いている。これが汗と一緒に流れていってしまうのなら、どれだけでも鍛錬してみせるのに。
「…っ…」
 ガツッと鈍い音がして、竹刀の先が手ひどく道場の壁にぶつかった。無茶な素振りを続けていたせいで、背後に壁が迫っていたことに気付かなかった。痺れた腕をだらりと下げて竹刀を取り落とすと、乾いた音が誰もいない道場に響く。
「痛、て……」
 背中を板壁に預けて、ずるずると座り込む。汗が目に入ったようで視界が霞む。
 情けない気持ちも相まって、泣いてしまえたら楽になれるのだろうかとぼんやり思った。
「誰かいるのか?」
 その時ガラリと引き戸が開いて、顔を出したのは近藤だった。昨夜遅く帰って来たというのにこんな早朝に起きて来るなど本当に珍しい。
「お、早う、近藤さん」
「あれっ、トシ早いな」
 慌てて立ち上がって体裁を取り繕う。情けない顔をしてはいないかと気に掛かったが近藤は気にする風もない。
「ちょっと早く目が覚めたもんだから」
「そうか、鍛錬はいいことだな」
「近藤さんこそ、早いな」
 さり気なく、竹刀を拾い上げる仕草で視線を外した。いまは正面から視線を合わせるのが難しい。
「うん、まあな。それよりトシ」
「なんだ?」
「ゆうべは済まなかったな、迷惑かけた」
 真面目な声で呟いて、近藤が頭を下げる。
「迷惑なんて言うな、無事ならそれでいいんだ」
「ありがとう、トシ」
 少し慌てた表情の土方に促されて、近藤はようやく顔を上げた。
「うっかり寝入るなんて誰でもあるさ」
「そう言ってもらえるとありがたい」
 やっといつもの軽口になって、ささくれていた気持ちが和らぐ気がする。
「ゆうべ、どこ行ってたんだ」
 竹刀を壁に掛けようとして近藤に背を向けた時、聞きたかったことがうっかり口から滑り出た。動けないままで、どんな返事か来るかと緊張して待つ時間は永遠にも感じられる。
「うん、ちょっとな」
 ふと気になる声音に、そっと振り返って目を向けた。近藤は軽く顎髭に触れながら目を閉じている。思い出し笑いをしているらしき横顔に、昨夜さんざん考えていた仮定がだぶる。
「…俺、着替えてくる」
「おう」
 そんな風にニヤけている近藤を見ているのが辛い。いたたまれない思いで土方は近藤から離れ、足早に道場を後にした。

 微妙な距離感を保ったままで、ふたり揃っての日勤は何事もなく終わろうとしている。昨夜のことは監察との間だけで止まり、騒ぎにもならずに済んだようだった。
 土方が意識して仕事のことだけを話題にしていたことに、近藤は気付いただろうか。
「近藤さん、そろそろ終わりそうか」
「うん、あともう少し」
 近藤が最後のチェックと押印をしている横で、土方は黙って待っている。
「ほい、これでオッケーかな」
「お疲れ」
 今日も、近藤の機嫌はとても良かった。いつもより調子よく仕事をこなしてくれたお陰で終業時刻ぴったりに終わっている。
「あのさ、近藤さん」
「うん?」
 鼻歌交じりに処務机を片付けている近藤に、少々遠慮がちに声を掛けた。
「今夜、俺と…その、酒でもどうかな。久しぶりに」
 土方から誘いを掛けるのは本当に久しぶりだった。このところ近藤が外出がちだったから余計に機を逸していたのもあるが。
 以前は近藤の方からよく誘われていたから、土方が言うことはあまりなかった。あえて土方が言う時には、雰囲気が盛り上がればそのあとも期待していいという暗黙の了解のようなものが出来ていた。
 今夜もそんなつもりで誘ってみたのだけれど。
「あ、今夜はちょっとな…。悪い、また今度」
 ひどく申し訳なさそうに、近藤が拝むような格好で片手を顔の前に立てる。
「そうか。分かった」
 土方があっさりと引いたのは、最初から断られる気がしていたからだった。
 近藤の気持ちが自分から離れかけているのではないかと感じていた。けれども、もう既に仮定ではなくなっているようだ。
「トシ、風呂行く?」
「俺は、後で」
 そっけなく答えたことには気付かなかったらしい。風呂を浴びた後でまた外出するつもりなのか、近藤は着替えを準備している。
 土方が黙ったままで局長室を辞したことも、もしかしたら気付いていないのかもしれなかった。