【本日、いちばんラッキーなのはヤギ座! なんでもかんでも上手くいって怖いくらいでしょう〜】
 食堂に隣接している畳敷きの休憩所から少し大きめなテレビの音が流れてくる。
 今は朝食に隊士達が集まってくるには少しばかり早めの時刻で、椅子に座っている者より食堂のおばちゃん達の方が多いくらいだった。
 既に朝食を食べ終え、休憩室のテレビの前で胡座をかいているのは夜勤明けの近藤局長。この星占いを毎日楽しみにしていて、見逃す訳にはいかないらしい。
 その休憩所のすぐ脇の席で、ゆっくりと朝食を取っているのはこの後から勤務の土方副長。テレビにかじりついている近藤に、近すぎるぞとたしなめるのもよくある光景だった。
【乙女座は可もなく不可もなく。平穏無事に終わるかもしれませ〜ん。…多分】
「多分ってなんだぁコラ」
 誰が占っているのか知らないが、この番組のブラック占いとやらは乙女座に何か恨みでもあるのだろうか。
 土方の知っている限り、乙女座の結果が良かったためしがない。
「テレビに言ってもな」
 そうして毎回、占いを読み上げる女子アナに文句を言うのもほぼ見慣れた光景だった。いい結果を聞けなさそうなのに見てしまうのは、習慣という名の中毒とも言えそうだ。
【そして本日最悪なのはおうし座ですよ。大変なことが起きてしまいそうです。泣き虫には要注意!】
「あれ、トシっておうし座じゃなかったっけか」
「そうだったかな」
 近藤が不意に目を向けてくる。土方はちょうど食べ終えたところで、食器を片付け立ち上がろうとしていた。
「大変なことが起きてしまいそうだってさ。気を付けないとなっ」
「はいはい」
 食器を戻しに行く土方は、まるっきり真面目に聞く気がなさそうだ。そんな態度に近藤は、むっつりと不服そうな表情になる。
「この占い、当たるんだからなあ」
「でもさ、抽象的過ぎて何に気をつけたらいいか分かんねえだろ」
 信じている人間の前で全否定するのも多少は可哀想か。土方は曖昧に笑って隊服のポケットから煙草を一本抜き出した。
「それに、泣き虫に要注意ってのもイミ分かんねえし。俺ぁ泣いたりしねえぜ」
 土方はマヨライターをカチリと鳴らし、ふうっとひと筋煙を吐く。隊士の少ない時間帯だけは、食後の一服を堂々と点けられる。
「そうだなあ、トシは泣いたりしないか…」
 近藤は何気なく呟きながら、横目で土方の顔を見た。
「…………」
 黙って見詰めているうちに、近藤の表情がゆるみ始める。それに気付いた土方が、怪訝な顔をした。
「なに、ニヤニヤしてるんだよ?」
 ゆるんだ顔でいったい何を考えているのか。指摘され、近藤は慌てて口元を引き締めた。
「ん、いや、別にっ」
「…まあ、いいけどな」
 取り繕う近藤に、土方はそれ以上突っ込まなかった。 就業時刻が迫っていて、ちらちらと食堂の時計に目をやっていた。
「夜勤明けなんだから部屋に戻った方がいいぜ。ここで寝ちまうなよ」
「んー、分かった」
 そう言うと急に、昨夜寝ていないことを思い出してしまったようだ。睡魔と疲れが、炬燵に背中を丸めている近藤の肩と瞼を重くしているらしい。
「じゃあ俺は行くぜ。お疲れさん」
「ああ、おやすみ」
 端で聞くと実にちぐはぐな挨拶を交わし、土方が食堂を出ようとする。
 眠そうな顔で近藤がゆらりと立ち上がるのを確認し、ホッとしてようやく廊下を急ぎ足で進んで行った。




 さてその後、就業中の土方。
 本日は一番隊、隊長の沖田総悟との町内見回りからの勤務となっていた。
「あー、いい天気だぁねィ」
 衣替えの季節にはまだ早いけれど、もう初夏といえそうな陽気の中。
 沖田はすでに上着を脱いで肩にひっかけ、ぶらぶらと歩いている。
「もうちょっとしゃっきり歩け」
 隣を歩く土方はきっちり上着もスカーフも身につけてはいるが、若干暑そうにも見えた。
「いいじゃねえですかィ、そぞろ歩きにゃうってつけの陽気でさァ」
「勤務中だボケ」
 話しながら歩く二人は周囲をあまり気にする様子がない。町人たち、特に年頃の娘たちは真選組で一、二位を争ういい男である二人が並んでいるのをため息と共に見つめているのだった。
 一人でも目立つというのに、二人ならば相乗効果。ほとんど衆人環視ともいえる。
「まったく、土方さんは堅てェんですからねィ」
「俺が堅くなきゃグダグダになるだろう」
「堅いばっかりじゃ、窮屈でェ」
 こんな会話は、もう何度となく繰り返されてきていた、全体的に不真面目で、ともすれば適当になりすぎる沖田はいくら注意しても馬耳東風。特に土方の言葉には一向に聞く耳を持たない。
「お前が自由過ぎるんだろうがっ」
 規律を守らせるのも土方の仕事だが、沖田は特に反発する。いつでも手を焼いているせいか、たしなめる語気も多少荒くなりがちだ。
「自由のねェ仕事なんざ、まるっきりイジメでさァ」
「…………」
 芝居がかった声で訴える沖田の顔を見た土方は、とっさに言葉が出なかった。
 沖田はまっすぐに土方を見つめている。
 そしてその大きな瞳からは、ポロポロと大粒の涙がこぼれていた。
「総悟…? どうした…」
「どうしたって、何がですかィ」
 沖田は不思議そうに、土方を見て聞き返してくる。
 自分が止めどなく泣いていることなど、まるで気付いていない様子だった。
「なんで泣いてんだ」
「泣くって誰が……」
 言いかけた沖田は、手を上げて自分の頬に触れる。その掌が濡れたのを見て初めて、驚いた表情になった。
「なんでェ、これ…」
 訳が分からないといった顔で、ぱたぱたと地面に落ちる涙の染みを見詰めている。
「それ、止まらねえのか」
「止まらねェっていうか、なんで涙が出てんのかもさっぱり…」
 無表情のままではらはらと泣いている沖田は、なまじ顔立ちが整っているせいか、どこか不気味でもあった。
 ただでさえ町民の視線を集める二人組なのに、突然沖田が泣き出したことで、周りが何事かと不審に思い始めたようだ。
「…とりあえず、戻った方がよさそうだな」
 周囲の視線が気になり始めた土方が沖田を小声で促す。沖田はコクリと頷いて、すうっと大きく息を吸い込んだ。
「そりゃひでェじゃねェですかィ! 土方さんの鬼、人でなしィ!」
「ちょっ…何言って」
 沖田が唐突に叫んだ言葉に驚いた土方は、焦って止めようとする。しかし沖田は、その腕をかいくぐって逃げ出した。
「あんまりだあァ…っ!」
 走るにつれてこぼれ続ける涙がキラキラと落ち、青春映画のひとコマのようでもあった。走り去る沖田の背がみるみる小さくなる。
 まるで身に覚えのない土方は、ただ呆然と、それを見送っていた。
「なんだあれ」
「さっきイジメって言ってなかった?」
「なにも泣かせなくても」
 周囲から上がる非難の声がだんだん大きくなってくる。まるで土方が沖田を虐めて泣かせたように言われるのは、実に釈然としなかった。
 最初から土方は何もしていない。そもそも普段から酷い目に遭っているのは、こちらの方なのだ。
 だがここで周囲に言い訳しても始まらない。集団の勢いはせき止めようとすると暴走するものだと経験から分かっていた。
「…………」
 土方は無言で長物に手を掛け、自分を囲む集団へと鋭い眼光をとばす。鬼の副長に睨まれて平気でいられる町民などそうそう居るはずもなく、皆恐れを成してそそくさと解散していった。
 鯉口を切るまでもなく済んで、内心でほっとしていた。そんな事態になったら良識のある町民とやらが、また苦情の電話を掛けて来るに決まっている。
 だが、いったい先刻のことは何だったのかと思う。
 また沖田のたちの悪い冗談ならば、身に染みるように処罰を与えるべきだろう。
 今度こそ年貢の納め時だ、と土方は怒り心頭で屯所への道を大股に辿り始めるのだった。

 しかし、屯所戻っても事態は好転した訳ではなかった。
「副長〜っ、沖田隊長にナニしたんですか!」
 玄関を上がるなり、血相を変えた隊士たちが押し寄せてくる。
 少々殺気立っているのは主に一番隊の者たちだろうか。隊としてよくまとまっているなと、土方は静かに観察していた。
「何の話だ」
 想像はついていたけれど、まずは状況を把握する為にとぼけて聞き返した。
「さっき沖田隊長が泣きながら帰ってきて!」
「聞いたんスよ、どうしたんスかって!」
「そしたら副長と外回り中にボケって言われたって!」
「先に戻れって追い返したそうじゃないですか!」
 連携プレーもよくできている、と内心で少しばかり褒めてやる。
 隊士たちの言ったことはだいたいが事実だ。しかしここまで湾曲されると、まるで違う様子に伝達されるのだとどこか感心していた。
「…で?」
 腕組みをして静かに問い返した。途端に言葉に詰まった隊士たちを、ゆっくりと見回す。
「俺が、総悟を泣かしたとして。それに何か問題でもあるのか」
 威圧する低い声に、隊士たちが震え上がる。水を打ったように静まりかえった中、土方がフッと鼻先で笑った。
「たっ…隊長は部屋に籠もっていくら声かけても出て来てくれねえんスよ!」
 土方はヘビに睨まれた蛙のごとく動けずにいる隊士たちの真ん中を突っ切り、奥へと足を向ける。その背に勇気ある者の声が被せられた。
「うるせぇんだよ」
 ぴた、と土方の足が止まる。
「こんな下らねぇ騒ぎで近藤さんを起こしたら、てめぇら全員切腹させるからな」
 ゆらりと振り返った土方の眼光に、その場にいた全員がすくみ上がった。

「入るぜ」
 沖田の部屋の前に立ち、声をかける。しかし多分、近づく足音で気づいているのだろうと思っていた。
 返事は無かったが、さらりと障子を開け放つ。
「眩しいんでさァ、閉めて下せェ」
 か細い声が部屋の奥から聞こえてきて、土方は言われるまま障子をぴたりと閉めた。
「何考えてるんだ、テメーのお陰で周りからさんざ責められたぞ」
「仕方なかったんでさァ」
 沖田はもう、けろりとした表情で肩をすくめている。涙も収まっているようだ。しかし泣き腫らした目元はまだ赤く、どこか痛々しさすら感じる。
「なにが仕方ねえんだよ、人を完全に悪者に仕立て上げやがって」
 いまだに腹立ちのおさまらない土方は、ずいっと間合いを詰めた。
「けど、あんなトコでおれが泣き続けてたら野次馬が集まって身動きできなくなっちまいまさァ。とっとと逃げる方がいいかと思いやして」
「う…。まあな……」
 沖田の言うことも、尤もに聞こえた。
「さっきのアレは何だったんだ。新手のおちょくりにしちゃあ手がこんでたみたいだが」
「おれにも何がなんだか…」
 困った様子でもなく呟いた沖田の瞳から、また前触れもなくぽろぽろと涙がこぼれる。二度目とはいえやはり、自分が泣かせているような気分になり落ち着かない。
「とりあえず今日は内勤に変更しかないな」
「おれもそのほうが、いいと思いまさァ」
 沖田はぐす、と鼻をこすり、タオルで目元を拭う。そんな仕草に子供っぽさの片鱗が伺えて、土方は武州に居た頃のことを何気なく思い返していた。
「沖田さん、ちょっといいですか」
「んー、誰でェ」
 部屋の外から不意に声がかかる。目を向けるでもなく沖田が気怠げに応える。
「山崎です、失礼します」
 言いながら、沖田の返事を待たずにスッと障子を開けて滑り込んで来た。
「あー、ホントに泣き虫になっちゃったんですね」
 山崎は、涙目の沖田を見て驚くでもなく呟く。
「泣き虫たァなんでェ」
「もうちょっと言い方ってもんがあるんじゃねえのか」
 その言葉には、土方と沖田の方が憮然とした。揶揄するにしても時と場合があるだろうと抗議の言葉がふたり同時に出かかる。
「あ、スイマセンスイマセン違うんです、ちょっと話を聞いて下さいぃ…」
 大きく一歩踏み出た沖田は既に山崎の首に真剣をひたりと当てている。涙目のままでじっと見下ろす瞳に恐れを成して、山崎が必死に弁解を繰り返している。
「話が進まねえから刀を引け」
 ぼそりと呟いた土方の言葉に軽く舌打ちをして、沖田は黙って引き下がった。
「実はいま、お江戸でちょっとした病気みたいなのが流行ってまして、その症状がつまり、沖田さんみたいに涙が止まらなくなるってものなんです」
「なんでェそりゃ」
「原因は、まだ不明です」
 山崎は、小さな手帳をぺらぺらと捲っている。土方ですら中身を見たことのないあの手帳には、いったいどれだけの情報が書き込まれているのだろうか。
「この病気は、幼い子供から順に感染してきているみたいなんですよ。だから発見が遅れたようです」
「子供が泣くってのはよくあるから分かりにくかったってことか」
「ですね。最近は沖田さんくらいの年齢の人まで感染して涙が止まらなくなるってのが多発したんで、こりゃあおかしいって調べていたところだったんです」
 山崎が手帳を閉じた途端に、沖田の瞳からまた涙がぽろぽろ落ちはじめる。鬱陶しげに涙を払って、沖田は再び山崎に詰め寄った。
「山崎ィ、どうやったら治るんでェ」
「くっ、くび、くるしぃい」
 山崎は理不尽に締め上げられて、死にそうな声で呻いている。やがて手を離し、沖田はまだ涙を落としながら切なげな溜息を漏らした。
「こんなんじゃ外へも出られねェ…」
 そうしていると、儚げな美少年に見えるから不思議だ。うっかり目を奪われた土方と山崎だったが、すぐに我に返ってわざとらしく咳払いをした。
「感染って言ったな。ウィルスかなんかなのか」
「そのようです。感染した子供たちはもう大体が治っていて、その治療法というのが…」
「なんだ、治療法も見つかってるのか」
 沖田が外勤務に出られないとなると色々と面倒なことになると思っていたから、土方は少なからずホッとした。