鬱陶しい梅雨の季節をようやく越えて、やっと夏らしい日差しが降り注ぐようになった。
 長い夏の日もようやく陰り、空の色は薄暮から藍へと染まり始めていた。
 まっすぐに延びた屯所の廊下を、隊服姿の男がひとり歩いている。ぬるい風の中を進むのは真選組副長、土方十四郎。
 進む先から聞こえてくる賑やかな声に気づき、わずかに表情を緩めた。
「盛り上がってるか」
 ひょいと覗き込んだ大広間の中では、隊士たちが揃って酒盛りの真っ最中。既に無礼講と化していて、みな陽気に酒を酌み交わしていた。
「お疲れさまっス副長!」
「あっ、副長いらっしゃーいっ」
「お先にいただいてますー!」
 急ぎの仕事をようやく終わらせてきた土方に、広間のそこかしこから労いの声が掛かる。
「トシぃ、お疲れさん!」
 広間の奥から、局長である近藤勲が一升瓶を抱えて手招きをする。暑気払いという名目で、宴会をしようと言い出したのもこの人だった。
 着流しの袂を肩まで捲り上げて、すっかりくつろいだ格好をしている。
「はい、どーぞ」
 土方が座るとすぐに、近藤が大ぶりなグラスを差し出してきた。中には一見して炭酸飲料と分かる、透明な液体が満たされている。
「なんだこれ」
「ジュースじゃないから、飲んでみろよ」
 笑って勧める近藤の態度に他意はなさそうだ。多少怪しむ気持ちはあったが、喉が渇いているのも本当だった。
「…………」
 受け取って一口飲むと、強めの炭酸と冷たさがすうっと汗を引かせてくれる。レモンの香り、そして日本酒の香りが鼻に抜けていった。
「けっこうイケるだろ」
 土方は感想を言う前に、ふた口めを含んでいる。そんな様子を眺めながら、近藤は得意そうな笑みを見せた。
「これは、日本酒の炭酸割りか?」
 よく冷えていて、口当たりがよく飲みやすい。土方はふっと息をついて、まんざらでもなさそうな表情だった。
「日本酒ベースのカクテルって言ってくれよなあ」
「居酒屋でサワーとかって売ってるヤツだろ」
 近藤の訂正には、にやりと混ぜ返す。その合間にも、ぐんぐんグラスの中身は減っていく。
「サワーは焼酎だろ。美味いって素直に認めなさい」
「おう、美味かった。おかわり」
 空になったグラスを土方がずいっと差し出すと、近藤は満足そうに頷いた。
「……飲み過ぎには要注意です……」
 近藤が冷えた炭酸を取りに行った隙に、か細い声が不意に聞こえてくる。
「山崎か。どうした」
 声を掛けられても、畳の上に俯せたまま起き上がろうとしない。いや、起き上がれないのかもしれない。
「もう出来上がってんのか、珍しいな」
「あれは、キますって……」
「近藤さんの炭酸割りか?」
 ふと気付けば、他にも既に転がっている隊士が何人も見える。まだ宴会は始まって間もないというのに、この数は少し多いようにも思えた。
「みんなアレに潰されたってことか」
「アレは、だって……」
「はーいトシくん、おかわりどーぞ!」
 言いかけた山崎を遮って、近藤が嬉しそうにグラス片手に戻ってくる。
「うん」
 土方は受け取ってすぐに、半分近くを飲み干した。
「元は日本酒だろ、アルコールがバカ高い訳でもないのに」
「それ……九割方、日本酒で……」
「ああ、そういうことか」
 口当たりがいいせいで、皆どんどん飲んでしまったのだろう。短時間でアルコールを大量に摂取したせいで、倒れる者も多くなったということらしい。
「鍛え方が足りねえぞ」
 土方は元々ぐいぐい飲む方だから、特に問題はない。
「肝臓は自信がありません……」
「だらしねえな」
 力尽きて倒れた山崎を、土方は鼻先で笑い飛ばした。
「土方ァ、勝負でェ!」
 唐突に、土方の前へ隊服姿の沖田がまろび出る。足の運びがやや怪しく、目元をうっすら赤くして明らかに酔っているようだ。
「なんだ、おまえも近藤さんのカクテルにやられたクチか」
 沖田はそんなに酒に弱い方ではない。だが、近藤の勧めに乗ってグラスを重ねてしまったのだろうことは想像に難しくない。
「いくぜェ……」
 据わった目で土方を睨め付け、ゆっくりと腰を落とす。
「…………」
 沖田が腰溜めに構えた手の動きに不穏なものを感じて、土方の指先がぴくりと動いた。
「じゃんけんぽん!」
「───っ!」
 声と同時に土方の目の前に突き出された手は、ハサミを模していた。対する土方が咄嗟に突き出した手は、握った拳。
「ちェ……負けちまったァ」
 二本立てた自分の指を見詰めた後、沖田はおもむろに隊服のベストを脱ぎ捨てた。
「さァさァ、次の勝負ゥ!」
「ちょっと待て、何の勝負だ」
 拳を振りふり催促している沖田に、土方が怪訝な顔を見せる。
「何って、野球拳に決まってんでしょ」
 なにを今更、と沖田が肩をすくめた。しかし土方の方は、そんなことを承諾した覚えはない。