それは、とある日の午後のことだった。
「副長、ちょっといいですか。例の件で…」
 食堂脇の休憩室で食休みをとっている俺のところへ、監察の山崎が近付いてくる。
 例の件とは、頼んでいた調査のことだ。中間報告に来たと、テーブルわきに膝を突く。
「副長の睨んだ通り、あの建物がアジトでした」
「やっぱりそうか。それで」
 まだ内密に調べていることなので、山崎の声が小さく低い。そのせいで、お互いに自然と顔を近づけて話をしていた。
「あれトシ、山崎とナニ話してんだ」
 そこへ姿を見せたのは、近藤さんだった。遠慮するでもなく、俺のすぐ隣に座って自分も耳を近づけてくる。
「こないだの調査の、中間報告だよ。…で、内部はどのくらいの人数なんだ」
 局長である近藤さんにならば、聞かれて特に困る話でもない。気にせずに、そのまま山崎を促した。
「内部は、多く見積もっても十人程度でしょう。こことここを出入りに使っていて…」
 山崎が説明しがてらテーブルに建物の見取り図を広げる。指で示された箇所をよく見ようと身を乗り出しかけたけど、そのとき腰のあたりに違和感を覚えて、眉をひそめた。
「何してんだよ」
「うん、スキンシップ」
 目を落としてみると、俺の腰には、いつのまにか近藤さんの片腕が回っている。近藤さんはにこにこ笑っていて、まるで悪びれる風がない。
 でも俺は、こんな冗談が嫌いだ。邪険にその腕を掴んで、容赦なく押し返した。
「冗談に付き合ってる暇ねえんだ。おい、続きだ」
 そのままふいっと近藤さんに背を向けて、見取り図に目を落とす。山崎はちらりと近藤さんに視線を向けたが、俺の指示に従う方が得策と思えたようで、素直に報告に戻った。
「そんな言い方しなくたっていいだろう」
 言うなり、近藤さんは力づくで俺を背中から抱きすくめてくる。正直驚いたが、部下の手前、取り乱すのもどうかと思い、ぐっとこらえた。
「離せよ、遊んでる場合じゃねえんだっ」
「俺だって遊んでるんじゃないって」
 もがいても、腕を緩める素振りもない。遊んでるんじゃないとすると、なぜかと考えて、俺は抵抗を止める。
「じゃあ、何なんだ」
「トシのことが大好きだからに決まってるだろ?」
「はぁあ?」
 嬉しそうな声で言い放った、聞き返したくもない言葉。動けない俺を抱き締めている近藤さんがどんな顔をしているか、目が点になっている山崎の表情で、想像できてしまった。
「なに言ってんだっ」
 我に返った俺は、慌てて近藤さんの腕から逃れようともがく。でも近藤さんは、俺にスリスリと頬ずりなんかをしていて、全く意に介さない。
「あ、あの、調査の時間なんでおれはこの辺でっ…」
「待て、山崎」
 不穏な空気を感じたらしい山崎が、逃げだそうとしている。それを、腕の力を緩めないまま、近藤さんが呼び止めた。
 その前に俺を離せ。
「なんでしょう…」
 山崎が足を止めて、おそるおそる問い返している。
「お前、トシのこと好きか?」
「へ?」
 ちょっと待て、言うに事欠いてなにを聞いてんだ!
「ななな、なにっ…」
「どうなんだ、正直に吐け」
 慌て過ぎて声が出ない俺を尻目に、近藤さんは何故か尋問モードになっている。
「それはその…好きか嫌いの二択なら、好き…なんでしょうけど、でも」
 おそらく、その言葉の後には上司として、とか二択なんだからそうとしか答えられないとか、そんな言葉が続いたのだろうと思われる。
「そうか。だがトシは俺のものだからな! 手を出すなよ!」
 でも、近藤さんがでかい声で言い放った言葉に、そんなものはきれいにかき消されてしまったらしい。
「あの、あの、わかりましたぁああ」
 今度こそ、山崎が声だけ残して逃げ去っていく。転がるように廊下を走っていく足音が聞こえたが、いまの俺にはそれを咎める気力もなかった。
「よかったなあトシ、これで手を出される心配ないぞ」
「よかった、じゃねえ!」
 嬉しそうに顔をすり寄せてくる近藤さんの腕から、俺はやっとの思いで、強引に体をもぎ離した。
「なんなんだ、今日はどうして、こんなことするんだ!」
 きょとんとしている鼻先へ、ビシッと指先を突き付けた。
 確かに俺と近藤さんは、その、恋仲というヤツだけれど。でも、だからといって、人前であんな事をしたり言ったり、していい筈がない。
 男同士だからというのもあるが、何より俺がベタベタしたりするのが、恥ずかしくて嫌だと思うからだ。近藤さんは、そういう俺の気持ちを汲んでくれていると思っていた。だから、今までは二人きりでも、明るいうちは何かしたり、しなかったんだろう。
「恋人にこういうことしてなにが悪いんだ?」
「だっ…だから、時と場合を選べって言ってんだ」
 近藤さんは本気で、何が悪いのか分からないと言いたそうな顔をしている。
「じゃあ、いまは二人っきりだからいいんだな」
「まだ真っ昼間だろうが」
「誰も見てないし」
 再び、伸びてきた手から逃れて、俺は一歩後ずさった。
「だいいち、ここ、休憩室だぞ?」
「場所なんか、気にしないから」
「俺が気にするんだ!」
 思わず声を荒げてしまって、ハッと我に返る。いまは確かに食堂にも休憩室にも誰もいないけれど、厨房の奥にはまだ、調理のおばちゃんが居るかもしれない。
「誰が来るかだって、分からないだろ…っ」
「…なら、俺の部屋に行こうか」
 慌てて声を潜めたが、そのせいで、勢いを削がれてしまうのは否めない。同じように、近藤さんも声を潜めて顔を近づけてきて、そのうえ腰をさらりと撫で上げる。
 その手つきが妙にいやらしくて、考えていることが易々と知れた。
「だから、まだ勤務中だっ」
 耳に息を吹きかけられて、ぶるっと震えると同時に、大きく後ろに逃げた。
「ちぇ。…じゃあこの後の外回り、俺も一緒に行く」
 追いすがっては来なかったものの、あからさまに不服な顔をしている。三十路近い男が口を尖らせても可愛くはない。
 確かに、俺は午後から外回りの予定になっている。でもこんな状態の近藤さんと一緒じゃあ、なにをされるか知れたもんじゃない。
「じゃあ、って何だよ、あんたは書類整理が溜まってるだろ」
「ええー、溜まってるのは書類だけじゃないのに」
 含みのある言葉の意味は、理解した。だがここで反応したら、この人の思うつぼだ。
「とにかく! あんたはちゃんと、自分の仕事を仕上げろよ」
「仕事終わらせたら、トシと一緒にいていいか?」
「…終わるんなら、な」
 内心ではこっそりと、終わるもんかと思っていた。いま局長室に溜め込んでいる書類は、俺がやっても、処理に夜までかかるはずだ。
「よおっし、その言葉忘れんなよ〜?」
「武士に二言はねえよ」
 これで、ようやく解放されそうだ。ふっと息をついた瞬間、実に素早く、掠めるようなキスをされてしまった。
「口約束、なっ」
 ニコニコしている近藤さんに言い返す言葉がみつからなくて、俺は黙ったまま、ぷいっと背を向けた。これ以上ここにいると、キスくらいじゃ済まない気もしてくる。
「行ってくるっ」
「あれ、少し早くないか?」
 食堂に掛かっているでかい時計を見上げて、近藤さんが呟く。確かにまだ、昼休みが終わるには少し早い。
 あんたが不穏だから逃げ出すんだ、とは本人に言いにくかった。
「煙草買いに行くから」
「そうか、じゃあ…気をつけてな」
 どこか寂しげな声には、ほだされそうになる。俺は振り向かずにひらっと手を振って、休憩室を後にした。
 近藤さんの前から逃れて、ようやく安心して息をつく。
 それにしても、今日の近藤さんは確かにおかしい。夕方までは、書類整理でほぼ部屋から出られないだろうからまだいいとしても、今後もずっとあの調子では非常に困る。
 後で、何があったかと少々問い詰めてみようと考えていた。