「先生、大変だぁ!」
 長い廊下を、急ぎ足で進む足音が聞こえてくる。読みかけの書物から顔を上げると同時に人影が障子の前で立ち止まった。
「先生、ちょっと失礼していいですかね?」
「近藤さんか。どうぞ」
 ここは伊東鴨太郎の私室。まだ早朝ともいえる時刻だというのに、慌てた様子で障子を開けたのは局長の近藤勲だった。
「いったい何の騒ぎなんだ?」
「それが、大変なことが起きたもんで」
「大変なこととは?」
 要領を得ない会話にわずかに苛立ちながらも、伊東は根気よく問いを重ねる。
「ここんとこ急に寒くなったでしょう。そんな訳でタチの悪い風邪がめっぽう流行ってまして」
「うむ、それで」
「隊士やその家族にまで広がって手がつけられんのです」
 頷きながら、この話のどの辺りが大変な話に繋がるのかと思案していた。
「近藤さん、できれば」
「そうだっ、実は倒れちゃって!食堂のおばちゃんたちがみんな来られなくなっちゃったんですよ!」
 もう少し手短に、と口を開きかけた伊東は近藤の言葉に耳を疑った。
「みんな?全員とはそれはまた……」
 隊士達の人数は決して少なくはない。彼女らが来られないという事は、なるほど、確かに大変な話だ。そう思案した伊東の表情をどう読み取ったのか、近藤は慌てた様に付け加えた。
「あ、来られないと言っても、倒れたのはおばちゃんたちじゃなくって、おばちゃんたちの家族なんで」
「……つまりは看病の為に皆、仕事に出て来られないと、そういう訳だな?」
「さすが先生、お察しの通りですよ」
 言い当てたことで、近藤は目を丸くして驚いている。伊東は眼鏡を指先で押し上げながら、薄く溜息を漏らした。今に始まったことではないが、どうしてこの人は、物事をもっと簡潔に伝えられないのだろうか。
「だが、それがどうして大変なんだ。食事くらいなら各自で調達するなりできるだろう」
「そうなんです、普段の状態ならそれでも良かったんですがね」
「何か問題でも?」
 男所帯とはいえ、隊士のほとんどが成人している。たとえ食事の賄いがなかったとしても、どうとでもなるだろうと思えた。
「ゆうべから今朝にかけて、体調不良を訴える隊士が激増しまして。そいつらの病人用食事も作らないとならないって訳なんですよ」
 そういえば近藤は昨夜、屯所の不寝番に就いていたはずだった。それももうじき終わる時刻だが、この分では休むこともできなさそうだ。
「粥くらいなら作れるだろう。何人くらい伏せっているんだ」
 何が問題だというのか、伊東はまだよく理解できずにいる。近藤は天井を見上げ、ひーふーみーと指折り数え始めた。
「十人くらいですかね?」
「……それは、多いな。土鍋で粥を炊くにしても」
「粥の問題だけじゃなくてですね。朝メシはおばちゃんたちが昨日のうち、下拵えしていってくれたから何とかなるんですが、昼よりあとは、食料の買い置きも無いんですよ」
 心底困った顔をしている近藤の前で、伊東は静かに書物を閉じた。
「とりあえず食事を作らなければ話にならないんだろう。誰か食堂に行かせたのか?」
「あ、いちおう手の空いてる隊士を何人か行かせて、朝メシ作るように言ってきてあるんですが……」
「様子を見てきた方がよさそうだな」
 伊東が立ち上がったのを見て、近藤はあきらかにホッとした顔をしている。だが、こういった時に近藤は、伊東よりも先に頼りにしそうな人物が居るはずだ。
「土方も寝込んでいるのか」
「……ええまあ、その通りなんです。それに沖田もですよ」
「成る程ね」
 鬼の副長と斬り込み一番隊長にまで取り憑くとは、確かにタチの悪い風邪のようだ。もう少ししたら医者が往診に来るというので、病人たちのことはそちらに任せればいいだろう。
 近藤と伊東は並んで厨房へと足を向けたが、近付いてくるにつれて何か焦げ臭い。嫌な予感がして、思わず顔を見合わせた。自然とふたりの足が速まる。
「おい、何か焦げてないかっ?」
 近藤が真っ先に食堂に足を踏み入れて叫ぶ。中は、奥の厨房から漂ってくる白い煙がうっすらと漂っている状態だった。
「局長〜っ、煙いっス〜!」
「換気扇回せって!」
「スイッチどこっスかぁあ」
 焼けた魚の脂がコンロに落ちて、それで焦げた匂いと煙を出しているらしい。厨房に飛び込んだ近藤がまずは火を止める。伊東は素早く換気扇を回して、窓を全開にした。
「火が強すぎだろう。だが食べられないことはなさそうだな」
 鮭の切り身は少しばかり焼きすぎのようだが、なんとか食用には耐えそうだ。
「あとなにを作るんだ」
 朝食だから、そんなに手を掛けなくてもいいだろうと言う近藤に、隊士のひとりが頷いた。
「米は、おばちゃんがタイマーをセットしてくれてたし、煮物も納豆も卵も用意してありました。あとは味噌汁作って、漬物を切るくらいです」
「味噌汁というのは、これか?」
 近藤と隊士の話を聞いていた伊東が、大鍋の中を覗き込んでいる。盛大に沸騰している鍋の中には、大量の煮干しが踊っていた。
「そうです、いまダシとってる最中なんで〜」
「こんなに沸騰させたら食べられたもんじゃない。やり直し」
「えぇ〜……」
 もったいない、と近藤も隊士もぼそぼそと呟いている。
「……なら、飲んでみるといい」
 伊東は火を止めた煮干しのダシ汁を碗にとり、味噌を少量溶いて、隊士と近藤にそれぞれ手渡した。
「……うぇえ…生臭ぁ」
「まっず〜」
 吐きそうな顔のふたりは、慌てて水を飲みながら涙目になっている。予想の範囲内とはいえ、そんな様子がおかしくて、伊東がプッと小さく吹き出した。
「お……?」
 滅多にない伊東の笑い顔を見たせいか、近藤が嬉しそうにニコニコしている。すぐに我に返り、伊東はコホンと咳払いをして口を引き結んだ。
「そういうことだ、分かったな」
「はい。でも正しいやり方ってどんなだか知らないです」
 頭を掻いて正直に打ち明けた隊士は、大鍋をコンロからやっとの思いで下ろしている。
「ふむ、浸け置きするほどの時間はないな……」
 独り言を呟いて、伊東が別の大鍋に湯を沸かし始めた。中には昆布が入っている。
 近藤とその他の隊士は伊東が何をするのかと気にしながらも、焼き魚と朝食の準備に追われている。
 伊東は沸騰直前に火を止め昆布を取り出した。ひと呼吸置いて差し水、更に大きく一掴みした鰹節を一度に放り込む。