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2/14に関わるあれこれ

二月が近づくと、江戸の町がどこか色めき立っているように見える。
そして二月も十日を過ぎる頃には、男所帯の屯所の中も浮き足だっているように感じられるものだ。
二月の十四日にバレンタインデーなるイベントがいつのまに定着したのか、真選組副長である土方には興味も関心もない。
けれども毎年チョコレートやプレゼント責めにあうほどの男前ゆえ、その時期が来たことだけは気付かされてしまう。
ただ、土方が何かを受け取ることは全くないのが常。
それよりも、土方が己のただひとりの大将と定めた相手が、そわそわと意識しているのが気がかりであった。

「もう、そんな時期かあ」
バレンタインデーを明日に控えた町中はピンクや赤に彩られ、娘達が連れだって嬉しげに買い物に興じる姿があちこちで見られる。
町中を巡回中、近藤がぽつりと呟く。土方は隣を歩きながら煙草に火を点した。
「なに、いま気付いたみてえなコト言ってんだ」
「いやいやいや、いま気付いたんだぞ。ホントだぞ」
「あーそうかい」
焦って弁解しているのを、わざわざ指摘するのも面倒だ。本当は二月になるずっと前から『バレンタインデー』の単語に、いちいち反応していた。
誰よりも近くで近藤のことを見ている土方だから、知っている。
もちろん、近藤がプレゼントを貰いたいと願う相手のこともだ。

きっと、明日も期待しているんだろう。
それが万に一つの儚い期待だったとしても、この人はその希望を捨てたりしない。
素直で、人を疑わず、無防備で底抜けのお人好し。
近藤はそういう人なのだ。
だから、その望みが叶うようにと手助けしてやりたくなってしまう。
明日の仕事が終わったら、近藤はきっと「すまいる」に飛んで行くに違いない。

「トシはあれだろ、今年もいーっぱい貰うんだろうな」
「俺は貰うつもりねえよ」
「なんで、せっかくの心づくしだろうに」
多分、近藤にとっては普通の疑問なのだろう。横顔はわずかに苦笑いで、羨ましいと言いたそうでもあった。
けれど、土方は腹の底に苛々したものがわき上がるのを感じてしまう。
近藤にとっては理不尽な感情と分かっていても、それを腹の底に押し戻せない。
「いらねえしっ」
「…そうか。トシはそういうの好きじゃないもんな」
言葉の端に棘が出てしまったのを、好意的に解釈してくれたらしい。近藤は少し笑って、その話題を打ち切った。

『やべぇ……』
思わず近藤に当たってしまったことを後悔する。けれども、今更謝るのも深みにはまる気がして言葉にできない。
巡回を進めつつも、その後ふたりの間には会話がなかった。土方は微妙な雰囲気をもてあまして、次々と煙草を灰にしていく。
近藤は普段、呆れるくらいに鈍い。なのにどうしてこう、ピンポイントに苛つくことを言ってのけるのだろう。
青空に煙を吹き上げながら、かすかに溜息を混じらせた。

土方はずっと以前から、近藤だけを見詰めている。
だが、その思いは決して伝えるつもりはなかった。
近藤が、想うあの女と幸せになりたいと願うのなら、応援するつもりも勿論ある。
腹の中はそう決まっているはずだった。けれども、近藤の言動には時折気持ちをかき乱されてしまう。
優しいお人好しは、無邪気に残酷な言葉を吐くから。

バレンタインが近づくにつれて、いちばん浮き足だっているのは近藤だった。
あの女も客商売なのだから、イベント日にそのくらいのサービスはするだろう。多分。
それならば明日の夜、近藤は緩んだ笑顔で嬉しげに贈り物を胸に帰って来る。土方としてはその場面に遭遇したいような、見たくないような複雑な気分だった。
まだまだ、自分は修行が足りないようだ。
携帯灰皿に煙草を押しつけて、再び懐を探る。しかし箱はカラになっていた。

「近藤さん、先帰っててくれ。煙草切れた」
「おう」
コンビニに寄り道するつもりで声を掛けると、近藤は軽く片手を挙げて歩み去って行く。
何気なく、その背中をしばし見送っていた。通りすがる近藤の姿を見つけた娘達が、恐ろしげに身を竦めているのがあちこちに見てとれる。
みんな分かっちゃいねえな、と土方は胸の内で呟く。
あんないい男は他にいるもんかと、娘達の見る目のなさに憤慨している。

しかし同時に、どこかで安堵もしている。
近藤の良さを見抜く娘達が多かったら。近藤に娘達が群がるようになったら。
それはそれで、今以上に苛つく毎日を過ごさなくてはならないのだろうと漠然と感じていた。
応援しているけれど、本当は誰かのものになって欲しくない。矛盾した想いは千々に乱れて、腹の底に澱のようにわだかまっていくばかりだった。

足を踏み入れたコンビニの中も、今はバレンタイン一色だった。入り口付近のいちばん目立つ場所に、所狭しと置かれた様々なチョコレート。
チョコレート味なら何でもありと言わんばかりにクッキーやチョコ大福、飴なんかも並んでいる。
レジカウンターの上に設置された陳列棚からいつもの煙草を掴みながら、その下に並んでいる菓子の数々をチラチラと見ていた。
『今年は逆チョコ!男性からチョコレートを贈ろう』
気付くとあちこちにそんな煽り文句が貼られている。だとしたら、土方がチョコレートを買う姿も違和感がないものになるのだろうか。

誘われるようにハートの形をした赤い箱を手に取り、一瞬だけ考えた。
だが、すぐに正気に返り、菓子を投げつけるように棚に返す。そして慌てて煙草だけを会計し、逃げるようにコンビニを後にした。
自分が近藤にチョコレートを贈ってどうする。
自問しながら、一瞬でもその気になりかけた自分が恥ずかしくて仕方ない。
土方は耳を赤くしながら、ものすごい速さで屯所までの道のりを歩き通した。

「あ、副長お帰りなさい」
居室までの途中、廊下で山積みの書類を抱えた隊士に出会った。その山は、確認しなくても分かる。最近近藤が浮き足だっているせいで、書類の処理が滞っているのだ。
「随分と溜め込んだもんだ」
毎日きちんとやれば、それほどの時間もかからずに済むというのに。近藤はどうも処務机に向かうのが苦手なようで、監視していないとサボりがちだ。
「明日までに処理してもらわないと困るんです」
「俺からよーく言っとく。置いてけ」
「よろしくお願いします!」
鬼の副長から雷を落としてもらえば、終わったも同然だと隊士は喜んでいる。深々と頭を下げ、土方に書類の山を渡して立ち去って行った。

「明日いっぱいか…」
近藤の処理能力を考えると、もしかしなくても明日中には終わらない量だ。それも近藤の自業自得といえばそうなのだろうけれど。
ずっしりと重い書類を抱えて、土方は少しだけ考え込む。やがてくるりと踵を返して歩き出した。
その足は、近藤の居室とは別の方向に向かっていた。





「終わったァア!」
明けて翌日の夕方。
就業時刻終了の大太鼓が響いたと同時に一際大きな歓声が上がる。
その数分後には、普段よりも念入りに髪を整え身支度した近藤が門へ向かって歩いていた。
これまでずっとソワソワしていた近藤が、一日仕事に身が入らなかったのは言うまでもない。
朝からどころか、昨日から落ち着かなくて気もそぞろだった。
「局長いってらっしゃい」
「おう、行ってくるぜ!」
門番の隊士に見送られ、いそいそと町へ向かう足どりが浮かれている。
だから、近藤は昨日からほとんど土方の姿を見ていないことにも当然、気付いていないのだった。



その夜更け、まだ交代時間が来ない門番は出かけた時とは正反対の重い足取りで帰ってきた近藤に黙礼した。
「…………」
返事をする元気もないのか、可哀想なくらいに肩を落とした姿が涙を誘う。
「アレってやっぱり…」
「……だろうなあ」
重い空気を背負った近藤を見かけた隊士達が、さわさわと噂をしている。きっと有り金全部使い果たした挙げ句、何も貰えず優しい言葉ひとつもなく、店を叩き出されたのだろう。
「チョコのひとつくらい、サービスしたっていいのにな」
「そしたら局長がものすごい勘違いするからじゃないか?」
普段から拒否し続けているのに、有り得ないほどのポジティブシンキングで都合良くしか解釈しない。そんな近藤に、情けは禁物なのかもしれなかった。

「近藤さん、落ち込むなんて、らしくないですぜィ」
のろのろと居室に向かおうとしていた近藤に、不意に沖田が声を掛ける。
「受け取ってくれますねィ?」
沖田が大きなハート型チョコレートを差し出したのを皮切りに、我も我もと隊士たちが集まり近藤にプレゼントを差し出してくる。
「お世話になった人にチョコ贈るのもアリでさァ」
「みんなぁ……」
皆の優しさに感涙して、近藤がグスッと鼻を鳴らす。
「ありがとうよ!」
満面の笑みで近藤が抱えた両手いっぱいの贈り物は、それぞれがみな、暖かだった。

「…あれ、そういやトシは?」
ふと見回す中に、土方の姿がない。
「モテ男はバレンタインなんざ面倒らしくって、引きこもってまさァ」
付き合いが悪いと言いたげに、沖田が肩をすくめた。
「そうか」
近藤は何気なく、土方の居室の方へ目線を向ける。
「近藤さん、これからみんなで、パーッと酒盛りでもしやすかィ」
「なーに言ってんだ、未成年が」
沖田の誘いに近藤が笑って額を小突く。
「おれはジュースでさァ」
「うん、じゃあまた、今度な。今夜はちっと疲れた」
くしゃっと沖田の髪を軽くかきまぜて、近藤は弱く肩をすくめた。そんな様子を見せられると、沖田もそれ以上は誘えなくなる。
「おやすみなあ」
「おやすみなせィ…」
近藤は軽く皆を振り返って、笑った。

みんなからのプレゼントの山を畳に置いて、近藤はその前に座して微笑んでいた。
女性からのプレゼントはひとつもなくとも、いいバレンタインデーだと思うことができた。
そういえば、土方はどうしただろう。引きこもっていたと沖田が言っていたから、本当にひとつも貰わなかったのかもしれない。
昨日から顔を見ていない気もするし、ちょっと様子を見に行こうと腰を上げた。

「トシ、入るぞ?」
明かりは点いていたが、廊下から声を掛けても返事がない。さらりと障子を開けると、土方が処務机に突っ伏して眠っていた。
「珍しいな」
そんなに切羽詰まった仕事でもあったかと、手元の書類を覗き込む。途中かと思いきや、書類はきちんと完成していた。
「これ……」
しかしそれはみな、近藤がやるべき物ばかりだった。
そういえば、今日はやけに処理する仕事が少ないと思った。ラッキデーだとばかり思っていた。
けれどそうではなく、土方が近藤の仕事を肩代わりしてくれていたのだ。
「トシぃ…」
申し訳なさと嬉しさがこみ上げて、また泣きそうになった。少しの間、考え込んでいた近藤は黙って土方の部屋を後にする。
そうして、夜の町に駆け出して行った。





「トシ…」
「……ん、う」
ゆったりと肩を揺すられて、土方はハッとする。がばっと跳ね起きた土方の横には、近藤が穏やかに笑っていた。
「え、あ、近藤さん」
「済まなかったなあ、トシ」
近藤の言葉に改めて処務机を見ると、書類がきれいに無くなっている。
「渡しておいたよ。ありがとうな」
こっそり終わらせておくつもりだったのに、片付ける前に眠ってしまったのは失態だった。
「…別に。俺はヒマだったからな」
煙草を口にしながら、何でもないことのように呟いた。しかし、山になっていたはずの灰皿まで片付いているこの状況では何を言っても言い訳にしか響かない気がする。

「それよか、チョコもらえたのかよ」
「ああ、隊士のみんなから山ほどもらったぞ」
にかっと笑う近藤の笑顔がどこか痛々しい。裏返せばつまり、女性からはひとつもなかったということか。
土方は、心の底でほっとしている自分が情け無く思えた。
「それでな、これ…受け取ってくれないか」
不意に、近藤が懐から小さな箱を取り出す。赤いリボンを直接巻いた、シガレットチョコだった。
「な、んで」
驚くと同時に鼓動が跳ね上がる。近藤のことだから、深い意味なんかないはずだ。それなのに意識してしまっているのが恥ずかしく思えて、煙草をふかすスピードが早まる。

「普段、トシには世話かけてばっかりだ。こういう時なら改まって礼もできるだろう?」
礼とか言ってもたいした物じゃないが、と近藤が頭を掻く。
「…もらっとく」
近藤の手から、ひょいと小さな箱を取った。
礼なんかいらないとは思うけれど、近藤の心づくしなら受け取りたい。
「結局トシは本当に誰にもチョコ貰わなかったのか」
「ああ」
ずっとここで仕事を詰めていたから、誰も押しかけられなかったのだろう。

「じゃあ、オレのだけ受け取ってくれたんだな」
にっこりと、近藤が満面に笑みを浮かべる。土方は一瞬言葉に詰まった。
この男は、どうしてそういうことだけは気付くのだろう。
土方は腹に力を込めて、赤面するのだけはかろうじて耐えた。
「疲れたからもう寝る」
「お、気付かなくて悪かったな」
ふいっと近藤に背を向けて呟くと、背後で近藤が立ち上がる気配がする。
「今度の非番、メシおごるからな」
「おう」
近藤の声に振り向かないままで、片手を挙げてみせた。
たん、と障子が閉まり廊下を足音が遠ざかっていく。土方は力が抜けて、処務机に突っ伏した。

「…ったく、かなわねぇなあ」
あの人の言うことは、無意識なだけにたちが悪い。
しかも深々と刺さるから、決めたはずの腹を揺さぶられるのかもしれない。
赤いリボンに飾られたチョコレートの箱をぱたりと倒して、土方は滑らかな表面を指先でそっと、撫でた。




                                   了
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2009.02.13



猫又






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