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「会長、アドレス交換お願いします」
 携帯を取り出し、オレは椿会長の返事を待った。
「え、あ、あぁ……」
 言い方が唐突だったのか、会長は少し焦る素振りを見せる。ポケットを探って取り出した携帯は、ほとんど傷も見当たらないきれいなものだった。
 実に、几帳面な会長らしい。少しでも曇ったらこまめに磨いていそうだ。

「QRコード出しますので、読み取っていただけますか?」
 スマートフォンは赤外線通信がないのが不便なところだ。ただ、個人情報を盗まれにくいのだからそれで良しとすべきか。
「読み取る……」
 会長はあまり携帯に慣れていない様子で、動作が幾分もたついている。もしかしたら機種交換したばかりなのだろうか。
 オレはコードを表示させたままで、じっと待つ。会長を待つことは、いつでも全く苦にならなかった。オレを待たせまいとして携帯画面に目を落とし、懸命に操作している姿を見ているだけで心穏やかになる。

「キリ……その、済まないが」
「はい」
 しばしの沈黙の後、会長が申し訳なさそうに呟いた。
「コードの読み方というのが…よく、分からない」
「そうでしたか、申し訳ありません。では会長のアドレスを表示させてくれますか。オレが登録してメールしますから」
 やはり、この携帯に不慣れなのか。そんなことも気づけなかった己が情けない。

「…………」
 会長は携帯を掴んだままで、何か考え込んでいる様子だった。オレが気に障るようなことを言ったのかもしれなくてドキリとする。
「アドレス表示だな、うん」
 小さく呟いて、会長はまた携帯を操作し始めた。ただ、その動きはたどたどしく、やがて再び止まってしまった。

────不意に、オレの脳裏に不穏な思いが駆け抜ける。
 もしや、メアド交換などという大それたことを、従者の分際で申し出たことに呆れられてしまったのではないか。
────いや、会長は嫌ならば嫌だとはっきり言う人のはずだ。
 だがしかし、深い情を持っておられる。オレを気遣って言い出しにくいと思うことは、あり得る。
 緩慢な動きは、実は教えたくない気持ちの表れだとすれば、そのように見える気もする。
交換お願いします、などと逃げ場のない言い方をすべきではなかった。

────オレは、出すぎたマネをしてしまったのか。
 何よりもまずは、会長にお伺いを立てるべきだった。交換していただけるかどうか、意志を確認することを怠ってしまった。
 優しい会長はオレを拒否することもできずに葛藤なさっているのか。そうだとすればオレは、会長に謝罪をしなければ。
────しかし会長に呆れられ完全に拒絶されてしまったら、オレはこれからどうしたらいいのか……!

「いや……この際、正直に言ってしまうが」
「……なんでしょう」
 叫び出しそうな心の葛藤は包み隠して、オレは表面上は穏やかに応えた。会長がオレを叱責し拒絶するのならば、それも受け入れるべきと腹をくくる。
「実は、携帯の操作がよく分からないんだ」
 真面目な顔をして、会長がオレを見上げた。オレは、緊張していた全身が安堵で弛緩するのを感じる。良かった、呆れられてはいなかった。

 そして改めて、会長の言葉を受け止める。
 そうだ。これも、予測できた答えだった。会長は高校生男子にしては、世の理を知らなさすぎるところがある。言い方は良くないが純粋培養というか、温室育ちというか。
 知っていて当然と思いこんでしまうところが、オレの従者としてのダメなところだと改めて噛み締める。
 ただ、会長のこういった部分がまた、良いところだとも考えている。そしてオレが側に居たいと強く思う理由のひとつでもあった。

「……でしたら、オレがやりましょう」
「ありがとう、キリ」
 オレに携帯を渡してにこ、と弱く微笑んだ表情は、会長が自分自身を情けないと思っている証だろう。会長にこんな表情をさせてしまうオレは最低な従者だ。
 会長がずっと握り締めていた携帯は、温もりが移ってあたたかい。オレの申し出に、懸命に応えようとしてくれた会長の思いがそこから伝わってくるようだ。

「どんなことでも、メールを頂けたら嬉しいです」
 アドレス交換を済ませた携帯を渡しながら、真摯な気持ちで会長を見返した。
「どんなことでもと言われても……例えばどんなことをだ」
「帰宅連絡とかはいかがでしょう」
 定時連絡でも構わないとは思ったが、律儀なこの人は一時間毎にでも『異常なし』と送ってくれそうだ。それでもオレは嬉しいが、会長の負担になるだろう。曖昧に『いつでも』と定義するよりも『帰宅時』と設定した方がこの人には受け容れやすいと考えた。

 本当は登下校もずっと護衛したいのだが、それはどうしても許可されなかった。朝は学校の近くで合流し、帰りは途中まで見送ることを譲歩してもらっている。正直オレはとても不満だが、それが会長の意向ならば仕方ない。
「あのなキリ、何度も言うが」
 会長は何故か自分の額に手を当てて、小さく溜息をついている。
「はい」
「ボクの周囲に敵など居ないし、危険なことなど何もないんだぞ?」

 そう言って、言い聞かせるように指を振り立てた。会長はいつでもこう言って、オレが心配性だと呆れる。
 だが、会長はご存知ないだけだ。名家のご子息で生徒会長でもある椿佐介という人物を、利用しようとする輩は必ず出現する。だからオレは、いつでも警戒を怠る訳にはいかない。けれどむやみに会長を脅かすのもどうかと思うので、あえて口に出すことはしなかった。
「ですが」
「うん?」
「会長が無事に帰宅したかどうか、いつも心配です」
 本当は、毎日会長が帰宅するまで陰から見守っている。それは、会長に気づかれることはないだろう。

「……っ…」
 驚いたような顔をして、会長がオレを見返した。オレが会長を心配することにそんなに驚かれるのも不思議だ。
 ほんのり頬を染めているのは、もしかして子供扱いだと思われたのか。
「あの、決して子供扱いという訳では」
「分かってる」
 わずかにうつむいて、会長はゆっくりと瞬きをした。

「帰宅報告でいいんだな」
「はい、ありがとうございます」
 これで毎日、会長からメールが貰える。我ながらうまく立ち回れたと己の成果に満足していた。
「それとキリ」
「はい」
 この人のことだから『帰宅した』とひと言くらいだろうかと想像していた。不意に声を掛けられて、オレは会長を見詰める。

「おいおいで構わないのだが、携帯の操作方法を教えてくれるか」
「はい、喜んで」
 やっと顔を上げてくれた会長と目が合う。嬉しそうに、そして照れ臭そうに笑った会長の表情がまたひとつ、オレの胸に刻まれた。
 携帯の操作など、会長は努力の人だからすぐに覚えていかれるだろう。会長の携帯操作方法を暗記することなどオレには造作もないことだった。

 帰宅連絡をする過程で、普段の気持ち、何気ない言葉、そういったものをオレにも聞かせてくれたら。
 胸の深いところでそんなことをこっそりと、願っていた。








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